2006年3月アーカイブ

愛社精神旺盛。。。じゃなくて、こんな本を読まされるので、真逆をいく本も読むべきかなと考えてのことです。ちなみに、このへんを見て読もうと考えてました。

日経のベテラン記者が書いているということもあって、内容の裏付け・話題の展開などにはケチのつけようが全くないという感じです。一朝一夕では書かれていなくて、長年の松下電器の情勢をよくよく理解した上で書かれた本です。表向きは利益・売り上げとものびていて好調なようにも見えるものの、実はそんな簡単な話ではないんだということを、この本を読めば一通りは理解できることでしょう。

人はいつかは必ず死ぬので、たとえどんなに優秀な人がすばらしい組織を作ったとしても、作った人が死んだ後にその人に続く別の優秀な人が出てこないと組織が永続しない、ってことの典型のように書かれてます。会社経営なんて時代に応じて臨機応変にしないといけない。創始者の大成功を根拠に「創始者の作ったものこそどの時代でも通用するもの」と絶対視してしまう風潮を切り捨てた社長、という話の展開です。

ただし、後出しでもっともらしい理由をつけただけの本ともいえます。結局のところ「成功した人のしたことが正しい」とも読めてしまう本です。創始者を絶対視するのが危険であるのと同じくらい、創始者を切り捨てることを絶対視するのも危険です。そのへんは注意して読みましょう。

改革が進んできたとはいえ、まだかつての全盛期とは比較にならないくらい危うい状態であることは確かです。というわけで、結局のところ次はどうなるんだろ、ってことでしょう。・・・という風に結論づければただのふつうの本だな。

「ウェブ進化論」を読んだ

梅田望夫・英語で読むITトレンドを読んで少しは感心していたもんで、それつながりで上記の「ウェブ進化論」を読みました。レビューの方は実はすでにmixiの方にあげていて、

2000年ごろ終わったインターネットバブルの後、インターネットの社会でどのような発展があったのかを、氏の言葉でまとめ上げようとした本。そのまとめが完成にはまだまだ遠いものの、今現在でこれだけまとめられている本は他にはなかなかないと思う。
ただし、基本的に今の若者世代にとっては当たり前といえる内容に終止しているように感じる。だからこそ「よくまとまっている」と若者が感じるんじゃないかと思う。だが氏の意図としては、今の40〜50代の方にバブル後のインターネットの社会の発展を理解して欲しいのだと思う。そんなターゲット層に向けた本としては「完成にはまだまだ遠い」んじゃないかと思った。
だからこそ、40〜50代の方に多く読んでもらいレビューしてもらいたいものだ。

などなどと書いてました。Amazonアソシエイトに申し込んでみた記念ってことで、改めてこの日記の方にも載せておきます。

結局のところ「Googleすげー」っていうだけの本です。それなのにこれだけ騒がれるような本になっちゃったということは、実はみんなはあまりGoogleがどうすごいかをあまり知らなかった、というか意識したことがなかった、ということなんだろうか。。

Googleは、PageRankとWeb検索だけの会社ではなく、素のPC(ブレード)を何千何万台も並べてクラスタ構成を取ったGFS(Google File System)を中心として、すべてのサービスをインターネット越しに提供すべく日々技術革新にいそしんでいる会社です。そのなかで「Web 2.0」とかいうものの発見(発明?)がされたことが副次的な作用で、Googleの技術革新に追いつけ追い越せでAmazonやYahooやMSNが技術開発に力を入れる流れを作ったということでしょう。ついでなので「はてな」もそんな「Web 2.0」な会社に加えてあげましょう。。

ただ、最近の日本(のベータブロガ周辺)では「Web 2.0」という言葉だけが先走りしすぎている気がするのが気になるところではある。まぁ私が気にしたところで何がどうなるわけでもないんだろうけど。

Life is beautiful: ゲーム業界のジレンマ
はてなブックマークの人気エントリー一覧ながめてて目に入ったのが上記の記事です。上記のブログのエントリでは、ゲーム業界としては今後、ゲーム専用機向けのゲームをガチで作るだけではダメで、カジュアルで簡単に楽しめるようなゲームを専用機以外にも提供していく必要がある、てな主張がされてます。この中で、スク・エニがTナビ向けにカジュアルゲームコンテンツを配信するてのが気になりました。

Tナビってのは、松下が推進するテレビ向けポータルサイト(類)のことで、Webブラウザを搭載したようなデジタルテレビを対象として様々なコンテンツをそろえたポータルサイトを提供しているやつです。(ケータイウォッチでの用語説明)

「テレビでWebを見る」ってのもかなり前から語られるコンセプトですが、未だに使ってる人がほとんどいないというのが現状かと思います。そんなさんざんな状況を松下もよくよくわかっているので、ここ最近Tナビサイトの強化を目指したり、横の連携を強めようとしたりしてます。その流れの一環で、スク・エニからのコンテンツ提供を受けるという流れになったのでしょう。

「テレビでWebを見る」ためのポータルサイトってのもあり得なくもない程度のアイディアではあると思うんですが、考えれば考えるほどケータイには勝てないなぁ、とも思えます。

まず課金。ケータイは月々の使用料とまとめてコンテンツ利用料金を払ってもらうことができます。Tナビだとわざわざユーザに課金のためにクレジットカードなどを登録してもらう必要があり、ユーザの負担になることが容易に想像できます。心理的に「登録めんどい」といったほうが正確かも。

次に利用者層。Tナビ対応のテレビなんて1家に1台あるかないかなので、必然的に何人かの家族で共有して使うことになります。大きめの画面で皆で一緒に使うようなコンテンツがTナビにあればいいですが、Webはもともとパソコン使って1人でポチポチするというイメージが強く、そういうコンテンツがやはり多いでしょう。それに対しケータイは一人一人が自分の端末を持っていてそれを占有できます。1人でポチポチするようなコンテンツには適してます。リビングで家族が見なそろってテレビを見るなんていう時代でもないので、一人で占有できるケータイは、1家に1台しかないテレビに比べてやはり有利でしょう。

最後にゲームの対応具合について。Tナビ対応テレビといってもしょせんはWebブラウザしか乗っていなくて、BML/HTML/CSS/JavaScriptあたりが限界でしょう。方や、ケータイではJava使ったゲームが全盛期です。端末開発時にJavaの動作の互換性を気にするほど重要な機能にもなっていて、Javaの処理能力を向上させることが端末のアピールポイントとなることも少なくないです。テレビも今からそんなケータイに対抗してJava乗せるのか?乗ったら乗ったでおもしろそうだけどね。

というわけで、テレビにケータイ並みのJava処理機能がのって、かつ家族が皆でわいわいできるようなゲームが提供されない限り、Tナビ構想は成功しないんじゃないでしょうか。

っといえば、XBox Liveがそのへんをねらっているようにも思えてきて、ますますTナビの居所がないような。。

ウソしか言わない人

平たくいえば、世の中には本当のこととウソのことと本当かウソかわからないこと、の計3つがあるといえると思う。「ウソをつかないように」とか「正直になりなさい」ってのは、意図的にウソをついて他人を困らせるようなことをするなという意味だろうと思う。

ウソをつく人というのは、一般的に他の人から信頼されなくなるといわれる。日頃「オオカミが来た」とウソをついて他人を困らせた少年は、本当にオオカミが来たときに「オオカミが来た」といっても信じてもらえない。

なんだウソをいっちゃいけないのか、っと早合点してはいけない。オオカミ少年の例では、オオカミがいないのに「オオカミが来た」とウソをつく場合と、オオカミが本当に来て「オオカミが来た」と本当のことをいう場合と、この2通りの場合があってはじめて困ったことが起こる例である。つまり、ウソをついて信用がなくなるというのは、ウソのことをいう場合もあれば本当のことをいう場合もあるという両者が混ざった状態の時である。「本当かウソかわからないこと」まで入れると話がややこしくなるので、これではそれはおいておきます。

ここで1つの妄想をしてみる。もしウソのことしかいわない人がいれば?そんな人がいれば、その人のいうことは必ずウソである。つまり、その人のいうことと矛盾する本当のことが必ず存在するという意味にある。たとえば、この人に「あなたは男ですか」と質問し「はい」と答えたなら、この人は女であるといえる。この人に「2006年のセンター試験の国語IIの一番最初の問いの答えはAですか」と質問し「いいえ」と答えたなら、一番最初の問の答えはA以外である。述語論理まで考えると「その人のいうことと矛盾する本当のこと」を探すのが難しくなるけど。

つまるところ、ウソしか言わない人っていうのを演じるのは非常に大変である。本当のことを知っていなければ、本当のことに反するウソのことを言うことができないからである。ウソしか言わない人っていうのはえてして何かを知っている人なんですよ。

金田一少年の事件簿の「首吊り学園」では最後で、犯人しか知り得ない情報を犯人から引き出すためにマーク式試験を課している。犯人は自分が犯人であることがバレるのがイヤなので、意図的にウソを答えてしまう。犯人じゃない人はウソか本当かわからないので適当に答えてしまう。結果、犯人以外は平凡な点を取り、犯人は0点を取る。選択式で50問くらいあったとき0点を取るのは難しいんですよ。

というわけで、あなたもセンター試験ですべての科目で0点を目指してみませんか?私も機会があればそういうのを目指してみたいです。

っというのを虚構新聞社の案内を読みながら考えてました。虚構新聞社ではウソのことしか書かれません。それはそれですごいことなんですよ。

[ITmedia +D LifeStyle] ブログにおける情報の重さ
なんか6日からアクセスが増えてるなぁと思ってたら、どうやら上記の小寺氏のコラムに原因があるようです。上記コラムにも書かれてますが、小寺氏がやってるコデラ ノブログで、ツールとインフラという記事が書かれていて、そこへトラックバック飛ばしたのが原因のようです。コラムを読んでコラムで言及された小寺氏のBlogのEntryを読んで、さらにそこのトラックバック一覧まで見ようと考えた人がこれくらいいたということです。40アクセス中上記のリファラ込みが39です。5日が1アクセスだったのに6日は39アクセスに、一気に39倍ものアクセス数をくださった小寺氏には感謝の意を表明したいと思います。ありがとうございます。ちなみに、トップページのアクセス数の推移はこんなもんです。6日には新しい記事も書いたんで、まぁそんなもんです。・・・ってどんなもん?上記コラムで氏が

 この問題は、2ちゃんねるのような匿名掲示板を考えてみるといい。2ちゃんねるへの書き込みの中には、真実もきっとあるに違いないのだが、それを見つけることは容易ではない。そしてそれ以外の嘘やノイズや噂や中傷やspamや冷やかしやフィクションなどを全部ひっくるめて、存在として認めてしまうしかないのである。

と何の脈絡もなく2ちゃんねるを登場させているあたり、私の記事を読んで少なからず毒されてしまったようです。ちなみに、2ちゃんねるのトップページのTITLEタグには「2ちゃんねる」と全角の二が使われているので、固有名詞は半角に直さずそのまま表記した方がいいような気がするのは私だけでしょうか。。んなのどうでもいいか。

今更「ブログとは」論をやってもおもしろくないので、別のところを論点にしてみます。氏はコラムで

ブログの情報を相手にどの程度シリアスに受け取って欲しいかの重み付けの単位、「ブログラム(bg)」を提案したい。例えばPSE法に対する熱い思いやなんかは98bgであり、部長の悪口は16bgであり、テレビの感想みたいなのは50bg、みたいな感じである。
いや、ここは高橋メソッドにならい「ブログラム」ではなく「コデラ・グラム」でないと。。。って、そこは論点じゃない。

氏もコラム中で電子メールには重要度を表すヘッダが存在することを指摘しています。しかし、重要度が高いと表示されたメールを開いてみればスパムばっかり、ってのが現状です。重要度が高いものにそれがわかるようヘッダ加工して欲しかったという当初の意図が、意図とは違った使われ方をしてしまって、違うだけでなく全くのムダなものに使われてしまってます。今ではメールの重要度をいちいちつけている人はほとんどいませんし、ましてやその存在すらほとんど知られていないのが現状でしょう。現状の不満を何とかしたいと思って考え出されたものが、意図通りにきちんと使われ社会に浸透するなんて、ほとんどないというのが実態なんですよ。

だからといって、新しいものを提案すること自体を否定するのはやはりよくない。ってことで、ここはやはり、小寺氏自身がコデラ ノブログで実践するのが一番じゃないでしょうか。単に本文にちょこっと数字を添えるだけではおもしろくないので、ここはRSSを拡張し、新しいタグ「bg」タグをitemタグのchildnodeとして追加し配信するのがいいでしょう。「コデラ・グラム」だから、「bg」じゃなくて「kg」か。なんか「ブログの個別記事の平均」といって重心とか計算できそう(ぉ) 「重い」ブログって読みたくないなぁ(謎)

こうやってRSSを勝手に拡張して、フォーマットの違いにより収拾がつかなくなってしまったなんてのが、コンピュータの世界の歴史には山ほどあります。ただし、勝手に追加する分には全く問題がない(はず)なのが今のXMLという規格なので、今やMicrosoftでさえも「世の中XMLだ」といっているんでしょう。

ちなみに、某アルファブロガーは、数値化するんでなく「カテゴリ」として表現するのがよいと考えているようです。まぁ、さすがに小寺氏自身も「bg」を本気で考えてはいないんでしょうけど。

最後に。私としては小寺氏には、こういう情報論だとかジャーナリズム論よりは、これとかこれといった、ビデオや動画やテレビの今後についてを中心に、映像の専門家としてコラムを書き続けて欲しいなぁと思ってますです。まぁ私が勝手に思ったところで、本人が好きなことを書くんでしょうけど。

でも、私が書いた適当な戯言を真に受けて変な方向へ突っ走ってくれるのを端から見ているのもおもしろいかなぁ。。。性格悪い?いやいやいやいやいやいや、まままままままま。

コラムにトラックバックを飛ばすことができないし、だからといって関係ないブログの方に飛ばすのもあれだし、やっぱりトラックバックは飛ばさないでおこうっと。

優柔不断の憂鬱

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物事の判断をするとき、その決断によりどんなメリットとデメリットが得られるかを考えて判断をする。メリット・デメリットを考えずに突っ走るのは危険だ。どんな落とし穴があるかわからない。事前によく検討し考えてメリット・デメリットを整理した上で判断する。それが賢明な判断であろう。

しかし、世の中メリット・デメリットを並べても判断が付きにくいものが多い。価値観の違いってやつが根底にはあるのだろう。あれこれ考えまくっている政治家でさえ、意見の食い違いが出てくる。正直、メリット・デメリットを並べたって、どう判断すればいいかが見えてこない場面も多いだろう。

しかし保留はできない。判断を先送りすることこそがもっともデメリットの際だつことになることさえある。政治や経営の世界ではそういうのが多いと思う。究極の選択ってやつをしなきゃいけない。どの選択がいいのか、メリット・デメリットを整理してよくよく考えても答えは得られない。そんな状況で何かしらの決断を下さないといけない。

どの選択をしたって、少なからずデメリットが生まれる。要はメリットがデメリットを上回ればいいのだが、両者の単純な比較はできない。デメリットを強調した批判をすれば、判断を下した人をいくらでも責め立てることができる。

そんな状態を幾度となく見てくれば、デメリットの小さい選択をする人に育っていってしまう。デメリットが小さくてもその分メリットも小さくなっていれば意味がない。デメリットを小さくしようとすればするほどメリットも小さくなってしまうだろう。こうして、大きなメリットのある夢を見なくなってしまう。

若さとは何か。おそれを知らない判断を下せる力か。大きなメリットを実現する夢を見る力か。それらを失ったらもはや若いとはいえないのだろうか。私は若くないかもしれない。

うーん、文才ないなぁ。どうせ書くなら技術系ネタの方がいいような気がする。まぁこんなのんきな文章書いてられるのも今のうちなので、まぁなんでもいいや。

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